7)「多文化共存」はグローバル化

 

「白猫でも黒猫でも、鼠を捕るのは良い猫だ」

  • 昔、日本のお隣りにある「紅い大国」で、一番エライ人がこう言った。
    「白猫でも黒猫でも、鼠を捕るのは良い猫だ」と。
  • これは、ご承知の通り
    「たとえ市場経済(注)でも、経済が発展するのならば改革開放政策を導入すべきだ」
    という意味である。

(注:この「改革開放政策」における「市場経済」とは、まあ有体に言えば資本主義制度のことである。
そんな内容を、こともあろうに共産党国家の最高指導者が宣言したというので、驚天動地の方向転換となったわけである)

  • これはもう、かれこれ四十年近く前のことなので、今のお若い方はご存知ないかもしれない。
  • だが、この一言に示されたような決断によって「紅い大国」の政策が一大転換し、今日見るような経済規模への大発展がもたらされたのはご承知の通りだ(注)。

(注:これは鄧小平の故郷・四川省の諺で、もともとは「白猫」ではなく「黄色い猫」だそうである。また鄧小平がこの諺を唱えた時期は実はもっと早く、1960年代初頭の所謂「経済調整期」にまで遡るという。所謂「大躍進」政策の失敗収拾のための政策修正を提唱する際、同郷の軍人劉伯承を引用する形で述べていたという※。いずれにしろこの諺を唱えた鄧小平の決断によって今日見るような改革開放政策が導入され、中国が飛躍的発展を遂げたのには違いない。※中国語版Wikipedia「猫論」https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%8C%AB%E8%AE%BA)。

 

 

異文化人でも異星人でも「良い社員」

  • これまで述べて来た通り、同じ日本人とはいえ、ワカスタン人は多数派のムラスタン人とは異なる文化の持ち主である。
  • そのワカスタン人について、上記の諺になぞらえて言うのなら、こうなることだろう。
    「たとえ異文化人でも、仕事をする社員は良い社員だ」と。
  • だが、もしここで異文化人のワカスタン人が、どうしても同じ日本人であることがお気に召さないともし仰るのならば、思い切って異星人だと思えば如何だろうか。
  • 容姿も容貌も地球人、いや日本人と全く同じ。日本語もペラペラ。
  • だが地球人ではない。異星人なのだ。

  • だがこの諺になぞらえて言えば「たとえ異星人でも、仕事をする社員は良い社員」なのだ。

 

国内での「グローバル化」

  •  因みに昨今の巷間では「グローバル化への対応」なるものが喧しい。
  • これは「外国人、即ち日本とは異なる文化の持ち主に対してどのように対応すべきなのかを学習する」ということだろう。

  • だが「グローバル化への対応が必要だ」か「グローバル人材の育成が急務だ」とか言って、今ここで何も慌てふためく必要はない。
  • 異文化人なら日本国内にいるからだ。即ち、ワカスタン人である。

  • 異文化人、即ち自分たちとは行動や発想の文化が異なる相手に対して、どのように対応すべきなのか。
    お互いにメリットを得るためには、どのような点に留意が必要なのか。
  • それはワカスタン人を事例に、既に縷々述べて来た通りだ。

  • だからワカスタン人に対して望ましい対応は、国外出身の異文化人に対しても望ましい対応と言うことになろう。
  • おまけにワカスタン人なら日本語はペラペラで、意思疎通に言語の障壁は無い。
    「グローバル化」なるものの習得相手としては、恰好のパートナーではないのだろうか。

「グローバル人材」とは

  • ちょっと考えてみていただきたい。
    こういう人でも「グローバル人材」になり得るのだろうか。

  • 国際部門の経験や海外生活が長く、外国語が堪能で、外国人社員とはファーストネームで呼び合う仲だ。
  • しかし職場では、若手の日本人社員に対して「分(ぶ)を弁えろ」とか「甘ったれるな」とか、叱りつける。
  • 視野が広いんだか狭いんだか、まったくよくわからない人だ。

  • だが、こういう人でも世間的には「グローバル人材」とされているのだろうか。

  • しかしこれでは、ワカスタン人には活躍の機会は与えられない。
  • いくら企業活動が「グローバル」な規模で展開されていても、足元の日本国内では一定数の社員の能力が発揮できないまま、死蔵されていることになる。

  • 敢えて「白猫でも黒猫でも」と言い切ってまで、遮二無二経済成長に邁進している「お隣の紅い大国」とは大分違う。
  • おまけに今や日本は、まさしくその「お隣の紅い大国」との「グローバルな」経済競争に直面しているのだ。

  • もし「グローバル化」なる標語が何らかの変革を意味するのなら、一体どちらが現実的な態度と言えるのだろうか。