16)「雇用市場」が齎す「他律性」

「市場化原理」による「他律性」

  • 「雇用市場」で「メシを食おう」とすると、どうなるのか。
    自分の収入は、景気動向や企業の経営状態や経営判断や技術革新や社会変化によって左右される。個人の努力ではどうしようもない。個人にとっては外部の環境条件によって左右されるし、おまけにそれらはころころ変わる。
  • いわば究極の「他律性」の状況である。
    これが「市場化原理」の特徴なのだ。これまた前記の通り「雇用市場」は、この「市場化原理」によって成立している。
  • 従ってつまり「雇用市場」で「メシを食おう」とする限り、個人は「他律性」に左右される状況を免れない。
    この「他律性」の認識が、「それじゃメシが食えないよ」という言葉の第五の意味である。現状を追認する、半ば諦め混じりの認識かもしれないが。
  • ここで、既に述べた「他律的支出」のことを思い出して戴きたい。
    この「他律的支出」とは、謂わば「支出」における「他律性」であった。
    ではこの「雇用市場」の齎す「他律性」とは何か。それは「収入」における「他律性」である。
    つまり個人は、「支出」と「収入」のどちらに於いても「他律性」に左右されている訳だ。故事成語に従って「入るを量りて出ずるを制す」などと言いたいところだが、実はどちらもままならない状態に置かれている訳である。

 

「物量基準型」人生観の場合

  •  だがこの「雇用市場」の「他律性」は、だからと言って直ちに問題である訳ではない。
  • 例えば前に述べたような「物量基準型」の人生モデルを価値観としている人にとっては、どうか。
    「雇用市場」の「他律性」は「市場化原理」によって成立している。だが個人の価値観とこの「市場化原理」は矛盾しない。前述の通り「市場化原理」は「物量基準型」価値観を前提としているからだ。そもそも「物量基準型」の人生モデルは「他律型」の人生観なのだ。
    従って矛盾は生じず、問題とはならない。
  • いやむしろそういう人は、社会が変化に富んでいる分、それだけチャンスにも富んでいると考えるかもしれない。そういう社会では、個人の創意工夫と挑戦と努力が物質的成果として明確に報酬となる。
    そう考える人にとってはむしろ望ましい社会だと言えるのかもしれない。

 

「努力基準」型人生観の場合

  • またそれ以外の「他律型」の人生モデルを価値観としている人にとっても、問題は無い。もともと自分の人生が「他律性」によって左右されることを前提とした価値観だからだ。
  • 例えば「定性基準型:努力基準」の人生観ではどうか。個人が環境によって翻弄される状況。それはそういう人にとっては、逆に一層の努力の必要性を裏付ける根拠となるのかもしれない。
    従ってその人は自分の人生観である「定性基準型:努力基準」の人生観を、より強固にすることになるだろう。やはり問題とはならないのだ。

 

「自律型」人生観での割り切り

  • では「他律型」の人生観を取らない場合はどうか。
    この場合でも、もちろん個人の価値観は多様であるから、個人の内心と外面は別だと割り切って考える人もいることだろう。
  • その方法は個人によって様々だ。仕事以外に自分の時間を確保できれば、それで良しとする人もいるのかもしれない。
    では、その判断基準は何か。残業をせずに済むことか。たとえ残業はあっても、休日出勤はしなくて済むことか。
    或いは、連日の残業と休日出勤によって仕事以外の時間が殆ど持てなくても、それでも割り切れるという考え方もあることだろう。
  • いずれにしろ「自分の生計が他律性によって如何に左右されようとも、内心の自律性は冒されない」と考える人ならどうだろうか。雇用市場の「他律性」は別に問題にはならないのだ。

 

「他律性」が問題になる場合

  • では「雇用市場」の「他律性」が問題になる場合は有るのか。あるのなら、それはどういう場合か。以降で述べよう。