22)価値は「等価交換」

「慈善」でも「寄付」でもない

  • ちなみにこの「市場化原理」外の「価値」を、上記のように「慈善」や「寄付」に依存していると考えるのはおかしい。なぜか。
  • 注意すべきなのは、この交換は「市場化原理外」であっても「等価交換」であるということだ。
    「市場化原理」からしたら割高な価格になっているからといって、別におかしくは無い。前記のように、「市場化原理」では評価されない「価値」がここでの交換対象なのだ。消費者はそれに価値を見出して相応の代価を支払っている訳だ。

 

価値と代価の「等価交換」

  • つまり買い手の消費者としては「代価に見合った価値」を入手しているのであり、その意味では「等価交換」である。商品の売買として成立しているのだ。チャリティーでも福祉でも慈善寄付金でも何でもない。
  • そしてどのような商品に「価値」を見出し、その代価をいくら支払うのかは消費者の判断の自由である。他人からとやかく言われる筋合いのものではない。

 

「市場化原理外の価値」の評価者

  • だが、おそらくこの背景にはこんな先入観があるのだろう。
    「企業は『利益追求原理』の組織であるから冷静で合理的な判断をする。これに対して消費者は、冷静になれず客観的な判断ができない。このため感情的で不合理な行動をとる存在だ」

    と。
  • だが、そもそもここで消費者が価値を見出しているのは「市場化原理外」の価値だ。一方で企業は「市場化原理」を動機とする存在だ。だから企業は「市場化原理外」の価値を評価できなくて当然だ。
  • もし企業が評価する場合があったとしても、それは前述の通り別途何らかの「利益追求原理」が背景にある場合だけだ。従って、「市場化原理外」の価値を見出して評価しているのが消費者だけになっていたとしても、それは別段不思議なことではない。

 

「消費者の皆様のおかげです」

  • それに消費者の需要に依存しているといっても、別におかしくは無い。消費財メーカーはみんなそうである。
  • いや法人顧客向け取引に特化していると自認する企業だって、そうだ。その顧客経由で生産関係を辿って行けば、最終的には消費者つまり「家計」に到達するからだ。「家計」とは、経済における最終的な「支出」の負担者だ。
    だれでも結局はここに辿り着く。同じことである。
  • つまりどんな企業でも「メシが食え」ているのは、結局は先程の「不合理な」消費者のおかげである。それなのに、自分と異なる価値観に対しては「消費者の不合理」と見做す。一方では、その「不合理」な消費者のおかげで自分が「メシを食え」ている事実に対しては、口を拭って知らんぷりする。
  •  これは自己矛盾ではないのだろうか。自分でも無意識のうちに自家撞着に陥っているのではないのだろうか。

「マーケティング」か「気まぐれ」か

  • 「個性」や「物語」を商品の付加価値として差別化するというのがマーケティングだというのなら、「市場化原理外」の価値の交換だって同じことだ。消費者が、価格や品質や機能以外にも何らかの付加価値を見出して注文を出しているという構図は全く同じなのだ。
  • まあ「マーケティング」という単語は、企業の営利活動に対してのみ用いられるというのなら、それはよしとしよう。だが「個性」や「物語(ストーリー)」による差別化とか言うのなら、それは企業だろうと個人だろうと、やっていることは全く同じだ。
  • それなのに否定するときは「実体のない気まぐれ」と言い、肯定するときは「マーケティングの成果」だという。どちらが本当なのだろうか。

 

「非対称」な比較

  • この比較では、一方に企業のマーケティングを置き、他方に個人の努力を対置する。そして企業の優位性を主張しているわけだ。
  • だがそんな優位性は当然のことだ。企業の組織力と資金力の方が勝っているに決まっている。従ってこの比較論は対象が間違っている。比較の対象が「非対称」になっているからだ。マーケティング力を個人と企業とで比較していても仕方がない。
  • つまり比較すべきなのは「個人と個人」であって、「個人と企業」なのではない。ここで比較すべきなのは、個人が「メシを食う」方法としてどのような手段を選択しているのかである。では、なぜ個人と企業を対置するような発想が出てくるのか。

 

「寄らば大樹」の前提

  • おそらくこの背景にはこんな先入観があるのだろう。
    「『市場化原理』の下で、『個人』が企業と『併存』することなど有りえない。そんなことは有る筈がない。」
  • と。
  • さらにこの先入観の背景には、おそらくこのような無意識の思い込みがあるのだろう。
    「『個人』とは、『市場化原理』によって淘汰されていく一方のひ弱な存在だ。『市場化原理』の下で生存が可能なのは、『企業』だけである。従って『個人』が生存可能な唯一の方法は、『企業』の一員つまり『社員』となることしかないのだ」
    と。
  • 要するに「寄らば大樹」の考え方だ。
    だがこの考えが妥当なのは、個人と企業の都合が全く一致しており、その間に何らの乖離も相違もないという前提があってのことである。この前提に立って初めて、企業とその社員である自分を同一視した発想が出てくる。
  • もちろん企業の一員なのであれば、各自がその前提を確信する根拠をそれぞれ持っていることだろう。ここでは、その発想の根拠は何か、その根拠は妥当か、その根拠によって確信するのは妥当なのか、現時点では妥当でも将来の見通しとしては妥当なのか、等々の諸点は問わない。

 

「自分自身のマーケティング」はどうなっているのか

  • だが企業の一員なのであれば、たとえ如何なる根拠と確信があろうとも、既に書いたような様々な「他律性」からは免れることはできない。言い換えれば「企業の都合の前では個人はひ弱な存在」なのだ。
  • 一方で「市場化原理外」の価値に挑戦している個人は、どうか。マーケティング力ではひ弱な代わりに、「他律性」を排除し完全な「自律性」を確保している。ここではその原理的な違いだけを指摘しておく。
  • * 従って「市場化原理外」の価値に挑戦している個人に関してマーケティングを云々するのならば、比較対象として挙げるべきなのは何か。企業の活動ではない。企業の一員としての自分のマーケティングである。即ち自分自身を社内でどれだけ差別化できているかと言うことだ。謂うなれば「社内セルフマーケティング」である。つまり「個人の生き方と個人の生き方」を対置しなければ、対称性のある比較にはならないのだ。

「個人」と「個人」の生き方の対置

  •  あなたも個人、他の人も個人である。サラリーマンをしようが独立自営をしようが、はたまた他の職業を選ぼうが、個人の生き方としてそれぞれが或る一定の選択をしたのだ。そこを比較しなければならない。
    企業の組織力を代弁した視点から、個人の活動を貧弱視することなんかじゃない。それでは、あなたもまた個人の一人だという視点を忘れている。
  • もちろんどんな選択も個人の自由だ。「市場化原理外」の価値に挑戦している個人が「採算度外視で」「自律性を最優先にしている」というのなら、サラリーマンを選んだ人は、「他律性」によるリスクは「度外視」して、個人では関与が不可能な規模や内容の仕事、つまり企業の一員ならではの仕事に関与できることに価値を置いている。そんな言い分だってあることだろう。
    だがいずれにしろ対置するのは「個人と個人」だ。「個人と企業」なんかではない。

  • 「メシを食う」手段としてどのような手段を選択するのかは個人の価値観と判断次第である。個人として「市場化原理」外の価値に挑戦する場合もあるし、それともサラリーマン生活を選ぶ場合もあり得る。ここではそのどちらも否定もしないし排除もしない。どちらに特定している訳でも推奨している訳でもない。誤解の無いようにお断りしておく。
  • どちらも個人の自由なのだ。ここではそれらの間の原理的な違いを比較しているだけである。この点念の為お断りしておく。