1)「負け犬の遠吠え」か

「負け犬」批判

  • さてここまで書いた内容に関して、ひょっとしたらこんな批判を仰る方もいるかもしれない。「負け犬の遠吠え」だとか「『負け組』なのに負け惜しみしているだけ」だとか。ちょっとこの問題について考えてみよう。
  • 結論を先に言えば、こんな批判を言う人は本当の「勝ち組」ではない。もし本当に「勝ち組」なら、現実に余裕綽々の筈だからだ。むしろ「お気の毒ですなあ」と「負け組」に対してかえって同情的な言葉を口にするのかもしれない。「勝者のゆとり」という訳だ。

 

「他律型」の価値観

  • 実はこんな「負け犬」批判をする人は、「人生モデル」の部分で書いた「他律型」価値観の人である。もちろん「他律型」価値観の人の全員が「負け犬」批判をする人訳ではない。
    だが「負け犬」批判をする人であるなら、その人は多分「他律型」価値観の人なのだ。なぜか。
  • 既に書いたように、「他律型」の人生モデルでは「上を見たらきりがない」。つまり「勝ち組」なのか「負け組」なのかは自分で決められない。自己位置は他人次第なのだ。つまり自己位置は常時不安定のままである。

 

「批判」する「心理」

  • この不安定性が、不安感と焦燥感を絶えず生み出す。しかもそれらは自分では原因を解消できない。
    このジレンマが、批判の動機となるのである。
  • まあどんな価値観を信じるのもお互い個人の自由だ。
    だから、どんな批判を受けようともいちいち取り合う必要はない。知らん顔していればよい。こういう批判に対してまともに反論しても、かえって「それ見ろ。負け犬がますます遠吠えしているぞ」と解釈されてしまう。つまり批判する側の思うつぼになってしまうことだろう。

 

「自己矛盾」への反問

  • だが「黙っていては、批判を肯定するようで癪に障る」と仰る方もいらっしゃることだろう。
    ではその場合は、こう反問してはどうだろうか。
  • 「なるほど、仰る通りかもしれませんね。ところで、それでは貴方はいつ『勝ち組』になるのですか」
    と。
  • こう反問すれば、批判してきた方も沈黙せざるを得ない。
    「他律型」価値観では、自己位置は自分で決められないからだ。「いつ『勝ち組』になるのですか」と質問されても答えられる筈がない。
    反問では、この矛盾点を衝くわけだ。

「負け惜しみ」批判も「負け惜しみ」

  • だがそれでも批判を撤回しない人もいることだろう。一瞬怯んだ後に、気勢を立て直す。
    そして、なおも上記のイラストのように再批判してくる訳だ。
  • こういう再批判に対する再反問は、こうだ。
    「なるほど、仰る通りかもしれませんね。でもそう仰っていること自体は『負け惜しみ』にはならないのですか」
    と。
  • つまり「負け惜しみを言わない」と言っていること自体が、既に「負け惜しみ」ではないのかという指摘である。
    「他人の言っていることは『負け惜しみ』だが、自分が言う分には『負け惜しみ』ではない」という自家撞着もしくは二重基準を衝く訳である。

 

「好きこそものの上手なれ」

  • まあこんな論争なんかしていたって結局は時間の無駄だ。従って、最後はこう言って相手にお引き取り戴くことになるのだろう。

「人間は万事が『好きこそものの上手なれ』ですよね。それぞれ自分の信じる途を歩んだ方が、最善の結果が出るのではないでしょうか。もちろんそれは『その人自身にとっての最善の結果』ですよ。そこで他人の人生がお気に召さないからと言っても、当人が満足していればそれでいいのではないのでしょうか。当人の人生は当人の責任。貴方には何の責任もありません。その代り、何の関係もありませんよね。知らん顔しておいた方が、むしろお互いの幸せになるのではないでしょうか」
と。