1)「新型うつ」はカルチャーギャップ

  • さて、これまで述べて来たことに従うのなら、「新型うつ」とは所謂「カルチャーギャップ」に他ならない。
  • それは、ワカスタン人が「ムラ社会」から蒙る「カルチャーギャップ」なのだ。これは一体どういうことか。

「人為性」と「多様性」の衝突

  • 既に述べたように、日本の「ムラ社会」は人為的な形成結果だ。
    もともと多様に散在していた日本列島の住民に対して、「同質性」という観念を「同調圧力」によって強制した結果、成立している社会である。
  • そしてその内部には幾多の自家撞着や不合理を含んでいる。
    その不合理を押し切ってまで「ムラ社会」を強制した理由には、歴史的な契機があったことも述べた。

  • しかしこれまた既に述べたように、もともと人間は多様である。「人はそれぞれ十人十色」なのだ。
    おまけに「三つ子の魂、百まで」である。持って生まれた性質は変わらないし、変えられない。
  • 従って、上記のような「同調圧力」には従いたくないという個人が居ても、全然不思議なことではない。
    ましてや同調を強制される内容に、幾多の自家撞着や不合理を含んでいるというのなら、それは一層当然のことだ。

  • つまり日本には、国内であってもカルチャーギャップが存在するのだ。
    同調圧力を強制しようとする多数派「ムラ社会」即ちムラスタン人と、そんな強制は排除しようとする少数派ワカスタン人との間のカルチャーギャップである。
  • この間の摩擦と衝突が、日本国内に於けるカルチャーギャップの原因なのだ。

 

「郷に従う」のはどちらか

  • カルチャーギャップとはどういうことなのか。
    それは「郷に入れば郷に従え」という言葉で済む問題では無い。ワカスタン人は途中入国してきた訳ではない。
    日本で生まれ育ち、生まれてからこの方日本語を使っている。つまり、もとから「郷に居る」「郷の住人」なのだ。

  • それなのに「郷に入れば郷に従え」などというのは、どういうことなのか。
    それは、ムラスタン人が「日本はムラスタン人(だけ)のもの」と勝手に格上げしているだけのことだ。

  • 日本は謂わば「多民族社会」なのであり、考え方の違う人々が住んでいる「多文化社会」の「郷」なのである。
  • その「郷」に従わなければならないのは、ムラスタン人の方なのだ。

 

「従う」のは「共存」ルール

  • もちろん多文化社会では、何の手当もなしに共存が可能になるとは限らない。
    文化の異なる住民どうし「お互い違っていますなあ」とびっくりしているだけなのなら、単なるカルチャーショックで済む。「人はそれぞれ、十人十色」という事実に慣れれば済むことだ。
  • だが中にはどうしても「あちら立てば、こちら立たず」で決着がつかない場合もあるだろう。これがカルチャーギャップだ。
  • その場合には、多文化が両立並立できるような何らかの共存ルールを考えだして、解決を図らなければならない。
    そして現にそのような解決策によって多文化共存に成功している社会もある訳だ。これまで一部、例を挙げて来た通りだ。

 

「あなたは存在しない」

  • もちろんムラスタン人も、カルチャーギャップを解消しようとしている。ただしワカスタン人の存在を認めないことによって。
  • だが、たとえワカスタン人だろうとムラスタン人だろうと誰であろうと、現に自分が存在しているのに「ここには、そんな人は居ません」と勝手に決められてはたまらないことだろう。
    自分が存在しているのかどうかは事実の問題であって、他人が決めることではない。ましてや多数決なんかで決まる問題でも無い。
  • だが「ムラ社会」にはそんな意識すらない。いくら言っても、自身の矛盾も自家撞着も不合理性も認識しようとしない。
    それが問題だという自覚すらないのだ。
  • もし、このような相手から自分の存在を勝手に抹消されないようにするならば、果てしなく努力を続けなければならない。
    その絶望感と徒労感こそが、新型うつの根本的原因なのだ。

 

果てしない徒労感

  • 新型うつとは、カルチャーギャップである。日本の「ムラ社会」は「人はそれぞれ十人十色」「三つ子の魂、百まで」という多様性を認めない。
    「同質性」の観念を信じ「ムラ社会」の「掟」を守るよう強制する社会である。
    その同調圧力に従わない個人は、「ムラ社会」と摩擦と衝突を生じる。これがカルチャーギャップである。
  • 「人はそれぞれ十人十色」という考え方に生まれついた個人は、日本の「ムラ社会」ではどうなるのか。
    自己の存在を守るために際限のない努力を強いられることになる。
  • その無限の疲労感が抑うつ状態を生じ、新型うつと呼ばれるのだ。

「他罰性」と「選択性」

  • ここで「新型うつ」について言われている「他罰性」と「選択性」について思い出してみよう(再掲図の赤い破線で囲った部分)。

理由その①:「他罰性」

  • ワカスタン人にしてみれば「人はそれぞれ十人十色」なのだから、自分と他人の価値観が異なっていたからと言って、別段それは不思議なことではない。寧ろ人間の本性として自然なことだ。ましてや、異なっているからと言って非難する根拠にはならない。
  • だがムラスタン人の「同調圧力」は、価値観が異なることを許さない。
    ムラスタン人にとって、「ムラ社会」の「同調圧力」に応じない個人は非難の対象である。

「同調圧力」は「悪くない」のか

  • いくら「柔軟性」のあるワカスタン人だからと言って、そんな非難を受けては黙ってはいられない。ワカスタン人としては、価値観が異なっているのは人間の本性として自然なことなのだ。
  • だが、何でそれを非難されなければならないのか。寧ろ非難されるべきなのは、そのような不合理な非難をする方ではないのか。
  • そこでワカスタン人から「悪いのは自分ではありません」という台詞が出てくることになる。
    もちろんワカスタン人にとって「悪い」のは、そのような不合理な非難をするムラスタン人の方なのだから。
    それはワカスタン人の価値観からしたら当然の反論である。

 

理由その②:「選択性」

  • では「選択性」については、どうか。
    ワカスタン人にとっては、他人の価値観が自分と異なっているからと言って、別段そのこと自体は問題視していない。

  • ワカスタン人にしてみれば「人はそれぞれ十人十色」なのだから、どのような文化と価値観を持つのかは、それぞれの社会と個人の自由だ。
    謂わばお互い様なのだから、ワカスタン人はムラスタン人自体の存在もその文化や価値観自体も、全く否定するつもりはない。
  • ワカスタン人がムラスタン人独自の文化を認めるのは、相互尊重のためだ。
    ワカスタン人は、ムラスタン人が自分たちだけの内部でどのような文化を持とうと、それを尊重する。

  • だからと言って、これは「自分たちワカスタン人も『ムラ社会』の文化に従います」ということではないのだ。
    だがこのことがムラスタン人には理解できない。

 

「異文化」とは「他文化の否認」ではない

  • ワカスタン人が問題視するのは、ムラスタン人がワカスタン人に対して加えてくる「同調圧力」であり、異なる文化の強制という行動である。
  • これがワカスタン人の「新型うつ」の抑うつ状態の原因となる。
    つまり問題視する対象を、相手の文化の行動の中から「選択」しているわけである。

  • ワカスタン人はワカスタン人独自の文化を持っているのだ。
    ワカスタン人にしてみれば、「同調圧力」によってムラスタン人の文化を強制されなければ、問題はない。
    その「同調圧力」から解放されれば、ワカスタン人本来の意欲も美質も蘇ることだろう。

 

「同調圧力」は「否認」の圧力

  • もし「新型うつ」のワカスタン人が休職すれば、どうなるのか。
    ムラスタン人の加えてくる「同調圧力」や非難から、一時的にせよ解放されることになる。
  • そうなるとワカスタン人本来の意欲が蘇ってくるわけだ。旅行でも何でもする気力が復活して来ても、不思議ではない。
  • このように、そもそもワカスタン人の「新型うつ」の抑うつ状態の原因自体が「選択的」なのだ。
    「新型うつ」のワカスタン人の行動が「選択性」をもつのも当然のことなのだ。何も不思議なことは無い。

 

病気を非難しても始まらない

  • 因みに、以前に「うつの原因が妥当かどうか、他人が査定することは無意味だ」と書いた。
    だからここで
    「抑うつ状態の原因が『選択的』とは何事か。それは『社会』に対する選り好みではないか」
    などと憤慨しても無意味である。もちろんこの「社会」とは「ムラ社会」のことだ。

  • 確かに、どのような価値観を持つのかは個人の自由だ。
  • だが事実として、世の中にはそのような原因で抑うつ状態になる人もいるのだ。
    その事実に対してどんな非難や価値判断を下したところで、それによって抑うつ状態が解消するわけでも、「新型うつ」が無くなるわけでもない。
  • 以上が、「新型うつ」はカルチャーギャップであると考える所以である。