21)解①②③の結合

解①②③が結合する順序

  • これまで述べて来た解①から解③はどのように結びつくのだろうか。
    それは上図の通りである。即ち、解③が成立すれば、解②が成立する。解②が成立すれば解①が成立する。
    言い換えれば、こうなる。
  • 人生における「採算を度外視」して自律性を最優先すれば、「好きな事だけやる」人生が可能になる。
    「採算度外視」の「好きな事だけやる」人生に徹していれば、「市場化原理」外の価値が実現できる。
    即ち、たとえ「雇用市場」以外の場であっても生計が成立する。その個々のメカニズムは既に述べた通りだ。
  • この場合に生計が成立する手段、つまり「市場化原理」外の価値が実現できる生計手段は、何でもいい。前述の「18)【解①】『市場化原理』外での価値とは」の部分で挙げたような「フェアトレード」や「自然農法」などの各分野だけに限らない。
    生業の種類は問題では無くなるのだ。これらの解①②③に従って手掛けるのならば、どんなことでもあって、それで生計が成立することになるだろう。

 

選択は各自の自由

  • なおここで誤解の無いようにお断りしておくと、ここでは「サラリーマンなどと言う職業は辞めてしまいなさい」とか「サラリーマンを辞めないと、うつは治らない」とか言っているのではない。
    同時に「独立自営に踏み切らなければ、うつは治らない」と言っている訳でもないし、「誰にとっても独立自営が好ましい」などと言って推奨している訳でもない。
  • 何度も書いているように人間の価値観は様々だ。
    どのような価値観を信じるのかも、人生でどのような選択肢を取るのかも、全て個人の自由だからだ。「物量基準型」人生観を信じる人もいるだろうし、生計手段を「雇用市場」の市場化原理に委ねる人もいることだろう。もちろんその中にはうつから脱け出す為の判断として選択した結果も含まれる。
  • また勤務先の環境によっては「好きなこと」に打ち込める仕事が続けられる場合だってあることだろう。また、たとえ完全な「他律型」の環境でも、どうか。「言われたことだけを黙ってやるしかない」環境だ。
  • だがそこでも「自分の仕事の結果が他人に笑顔を生むのが励みとなって、仕事が続けられる」という場合だってあるだろう。取引先なり社内の関係者なりの他人が「あなたのおかげで、こちらの仕事もサクサク進みます。」と顔をほころばせてくれる。そういう笑顔を見るのは、誰にとっても喜ばしい体験だろう。既に書いた通りだ。
  • ここでサラリーマンなり何なりの職業を続けるのかどうかは、個人の判断の自由だ。
    「これが自分の職業だ」と自信を持って言えるか、或いは「自分に無理なく続けられる」という確信があるだろうか。
    もしあれば、それに従えばよい。誰も彼もがこれらの解①②③に従う必要はないのだ。

 

 

「解」①②③の対象になる人

  • だがそこで「他律型」の人生観を排除し、自分の人生では「自律性」を至上命題としたい価値観の人もいることだろう。
    その価値観を実現するために、生計手段からも「他律性」を排除して「自律性」を全うしたい。そのためには「雇用市場」外に活路を見出すことも辞さない。既に書いた「徹底的自律型」人生観の人である。
  • このような価値観の人にして初めて、これらの解①②③の如何が問題となってくるのだ。
    従ってここで書いた解①②③の対象は、あくまでこの「徹底的自律型」人生観の人たちである。
    つまり、自己の価値観の「自律性」と雇用市場の「他律性」の狭間でジレンマに陥っている人たちである。しかもそこから脱け出そうと考える際に、所謂「疑似問題」に嵌まり込んでしまっている場合が対象である。この点誤解の無いようお断りしておく。

 

例示の目的

  • なお更に誤解の無いようにお断りしておくと、これまで幾ら「解が成立する」とか「生計が成立する」とか断言していても、これは「著者の頭の中の想定ではそうなっている」というだけのことである。
  • 前述の通り、ここで述べている内容は実際にこのような生活が可能であると保証するものでもないし、実例として述べている訳でもない。況や推奨するものでもない。何の保証もお約束できない。
    著者自身としてもサラリーマンしか生活経験はないのだし、ここで書いたような生活が今後自分で実践できるのかどうかも分からない。全て著者の想定である。
  • では、そんな想定を述べていくことにどのような意味があるのか。
    それは既に述べた通り、「疑似問題」の循環論議に陥らずに「その先」へ思考を進めるためである。
  • それなのに「循環論議に陥らずに、その先を考えねばならない」と書いた本人が「その先」を考えていないのでは、お話にならない。
    従って「その先」の考え方として、著者の考えた内容をご披露したまでのことである。著者が述べている内容は、あくまでこのような意味での例示だと受け取って戴きたい。

 

 

「それじゃメシが食えないよ」の六つの「意味」

  •  さて、これまでは「それじゃメシが食えないよ」という言葉を発端にして、様々に述べて来た。即ち「それじゃメシが食えないよ」という言葉は、下記の通り複数の意味を持っていた。

 

第一の意味:現金収入の必要性の認識

第二の意味:「最小限度」の現金収入と労働の必要性の認識

第三の意味:「最小限度」における「他律的支出」の認識

第四の意味:生活設計の変更が自分以外に及ぼす影響の認識

第五の意味:「雇用市場」における「他律性」の認識

第六の意味:「徹底的自律型」人生観と「他律性」のジレンマの認識

 

  • これらの意味は、範囲が重なったり繋がったりしている部分はあるものの、微妙にズレながら、中心として指す基軸や方向性は異なっている。謂わば同音異義語のようなものであり、もっとはっきり言えばそれぞれ全然違った意味を指している。
  • 従って「それじゃメシが食えないよ」という表現が同じだからと言って、同じ意味だと思い込んで対話や思考を進めことはできない。もしそんなことをすると、いったいどうなるだろうか。

 

 

「お互い、何となくわかったような気になる」だけ

  • 「そんな細かいこと、どうでもいいじゃん。そんな細かいところまでいちいち詰めてたら『対話』も『傾聴』も進められないよ」と仰る方がいるかもしれない。
    だが、お互いが使う言葉の意味の違いを曖昧にしたままでは、本当の対話にはならない。「お互い、何となくわかったような気になる」だけである。
  • そんなものは「傾聴」でも「対話」でもなんでもない。
    やがては対話も思考も、意味の違いによって齟齬を来す。結局何のための対話や思考だったのか、全く成果が得られない。
  • 著者の経験では、この「それじゃメシが食えないよ」というフレーズは、リワークプログラムなり体験者交流会なり、メンバー相互で対話するグループディスカッションの場では、必ずと言ってよいほど登場する。すぐに「それはいいけど、どうやってメシを食うの?」とか「なんだかんだ言っても、メシが食えなきゃ仕方がないよ」などという議論になるのだ。本章の冒頭で書いた通りだ。
  • だがこの「それじゃメシが食えないよ」というフレーズが、いったいどういう意味で意識されているのかが、著者にとっては毎度よくわからなかった。
    人によって意味が違うのか、同じなのか。違うのなら、どのように違うのか。みんな同じ意味で使っているのが分かっているから、特に説明せずにそのまま話を進めているのか。
  • それとも、人によって意味が違うのに、お互いそれに気づいていないだけなのか。
    しかし、それでは結局混乱に終わるのがオチなのではないのか。「この議論の展開には少々注意を要する」と、これまた本章の冒頭で書いた通りだ。
  • ここでお書きした内容が、皆さんにとって事前の整理の為にご参考になれば幸いである。