1)「ムラ社会」のメカニズム(1)「入会式」

「ムラ社会」のメカニズムを解剖する

  • さてこれまでは「日本人の中には『ワカスタン人』と『ムラスタン人』と言う異なる文化の持ち主が存在する」と仮定してきた。
    その上で、少数派であるワカスタン人から見たら、どのように考えられるのかを述べて来た。
  • つまり問題の視点を、多数派の視点から少数派の視点に逆転させてみたわけである。
  • ここでムラスタン人の皆さんがその内容を納得して、ワカスタン人に対する以後の対応を変えていただけるのなら何の問題はない。

  • だがもしそう簡単にムラスタン人の皆さんの考え方が変わるのなら、これまでワカスタン人も誰も何も何の苦労もしていないはずである。
  • これまでのように、ワカスタン人側の視点から見た望ましい対応を述べても、それだけでは不十分である。
    未だもう少々「ムラ社会」について考える必要があるのだ。

  • そのためには「ムラ社会」のメカニズムを考え、次いでその起源と目的を考え、然る後にワカスタン人としてどのように対処したらよいのかを考えねばならない。
  • それでは先ず「ムラ社会」のメカニズムについて、もう少々考えてみよう。以下、相当長い遠回りが続くが、今暫くお付き合い願いたい。

 

「以心伝心」の「不文律」

  • ところで皆さんは、こんな叱責を受けたご経験はないだろうか。
    それはもちろん、うっかり「ムラ社会」の「掟」に外れてしまったときに受ける小言である。
    「そんなことは言わなくても分かる筈だ」「自明の理だ」「以心伝心で分かるだろう」などと。

  • ということは、「ムラ社会」の「掟」は「不文律」なのだ。
    「不文律」とは「誰でも知っていることになっているが、しかし誰もが公然と口にしようとはしないこと」だ。

  • つまり「ムラ社会」の「掟」は「自明の理」なのだ。
    だから「言わなくても分かる筈」であり、従って誰でも知っているから敢えて誰もわざわざ口にしないという訳なのだ。

生まれつきかテレパシーか

  • だが人間社会の文化は、みな後天的学習の産物だ。日本語と言う言語も、お箸の使い方もお米の砥ぎ方も、生まれてから誰かに教わって学んだものなのだ。
  • だが「言わなくても分かる」ことなら、こんな後天的学習は不要のはずだ。
  • みんな一体どこから「ムラ社会」の「掟」を知ったのだろうか。生まれつき知っていたのだろうか。
    それとも「ムラ社会」の住人は、皆テレパシーなどの超能力の持ち主なのだろうか。「以心伝心」とはテレパシーなのか。

  • そんなはずはない。現に皆さんもこんな経験はないだろうか。
  • 会議の後などに一人だけ残され、上司や先輩から「お前なあ、分かってるのか?」と懇々と諭された経験だ。もしかしたら場所は、終業後に連れ出された赤提灯の小座敷だったかもしれない。

  • もちろんこれは「ムラ社会」の「掟」を伝授するためである。だがそれは決して人前で公然と伝授するのは憚られる。人気のない会議室や終業後の赤提灯で、余人の目を避けて行われるのはそのためだ。
  • 「掟」を口にしているところは、決して他人に見られてはいけないのである。なぜか。

口にしないから「自明の理」になる

  • それは前記の論理の逆を辿るからである。
  • 「ムラ社会」の「掟」を誰もが口にしないのは、それが「自明の理」だからではないのだ。
    逆に、こんな論理に則っているからなのだ。

  • 誰もが口にしない→それは誰でも知っているから→なぜ誰でも知っているのか→言わなくても分かるから→なぜ言わなくても分かるのか→自明の理だから、という論理だ。
  • このようにして、「ムラ社会」の「掟」が「自明の理」として格上げされるのだ。
  • 従って、「自明の理」だから口にしないのではない。口にしないから「自明の理」になるのだ。

  • だがそのためには、人前で「掟」を口にすることがあってはならない。だから「掟」の伝授は、人目を避けて行う必要があるのだ。
  • 誰もテレパシーの超能力なんか持っていない。「掟」と言えども、みんな人伝えに伝授を受けたから知ったのだ。
  • だがその「掟」を「自明の理」として格上げするためには、その伝授の場面を人目から隠すというトリックが必要になるのだ。

 

「ムラ社会」の「入会儀礼」

  • なるほど、伝授の方法は分かった。
  • だが今度は、伝授された「掟」を守っているのかどうかは、どうやって判断するのだろうか。
  • 既に書いたように「掟」は人前では口に出来ない。文書化するなどもってのほかだ。だからマニュアル化してロールプレイチェックすることもできないし、況や筆記試験もできない。

  • そこで登場するのが、外面動作での判断である。
  • しかもその外面動作とは、集団での統一動作である。次の四コマのマンガは、そのイメージを描いたものである。

  • だがここで
    「こんな朝礼を続けることと、売り上げがどんな関係があるのですか」
    などと突っかかってもダメである。「ムラ社会」は「ムラ社会」なりに必要性があってやっていることだからだ。
  • まあ中には「一致団結して課題達成に立ち向かう精神力を養うためだ」とか「職場に対する帰属意識を高めるためだ」とか、説明してくれる上司もいることだろう。

  • だがそれではその「精神力」や「帰属意識」などに、朝礼の前後でどのような変化があったのか。何か測定方法があるのだろうか。
  • 社員アンケートをして調べるのか。
    しかしその場合には「他者の影響なしに、自己の本心を書いて貰っている」という前提が必要だ。
    「『朝礼前にはマイナス何%だったが、朝礼後にはプラス何%になった』と回答用紙には書いておくように」などという「掟」が事前に出回っていては何にもならない。
  • それとも朝礼時に出す声は、大きい方がいいのか。
    それなら各自の声量を測定して、優秀営業マンの成績との相関を計ったら、何か有意な統計値が得られるのか。もちろんそんなことは有るまい。

  • つまり「朝礼によって『精神力』や『帰属意識』が高まり、それが業績向上に繋がるのだ」と信じている人は、「本人がそう思っている」という主観的根拠以上のものは無いのだ。
  • それでは本当の「必要性」とは何なのか。

 

同調意思の証明

  • 「ムラ社会」の「掟」を守ってもらうためには、まずその「掟」を受け入れて貰わねばならぬ。
    個々の「掟」の内容は秘かに口伝で教え込むとしても、先ずは「掟」を受け入れるという意思が無くてはいけない。

  • つまり「ムラ社会」からの「同調圧力」に応じる意思表明が前提条件となる。そこで登場するのが、外面動作での判断である。
  • 実はこの外面動作での判断には、寧ろ不合理があった方がいいのだ。その不合理を甘受してまで、「同調圧力」に応じるかどうかが分かるからだ。
    そのような不合理性を甘受するかどうかが、判断基準となるのだ。

  • まあ言ってみれば一種の「踏絵」である。
  • 全く有難くない話だが、そのような機制で必要とされている可能性は、承知しておいた方がいいだろう。
  • この「踏絵」に応じたものだけが「ムラ社会」への仲間入りを許される。
    言ってみれば一種の入会の儀式、つまりムラ社会に仲間入りする入会式というわけだ。

  • このように統一の外面動作を集団行動で行わせることは、所謂「通過儀礼」の一種なのだ。
    謂わば「ムラ社会」における「入会儀礼」なのだと言えよう。

 

多種多様な「入会儀礼」

  • マンガの例では朝礼風景を描いたが、こんな朝礼には経験のない方もいらっしゃるかもしれない。
    だがその場合はその他の職場習慣を思い出して戴きたい。皆さんにもお心当たりがないだろうか。

  • 例えば、社員旅行、社内運動会、社内ゴルフ、社内麻雀大会、カラオケパーティ、忘年会、新年会、等々。
    いずれも何故だか「全員参加」が「不文律」となっており、参加を嫌がるか断ると、しつこく理由を詰問される行事だ。
    「じゃあ、やっぱり参加します」と翻意するまで、どうしても許して貰えない。
    こんな職場習慣のことである。これらはいずれも前記の「入会儀礼」なのだ。

  • だから前記のように「こんな職場習慣にどんな意味があるのですか」などと質問してはいけない。
    たちまち「ムラ社会」の仲間うちからつまみ出され、懇々とお説教されてしまう。

  • 曰く「そんなことは言わなくても分かる筈だ」「以心伝心で分かるだろう」「自明の理だ」などと。
    或いは表現を変えて「そんな『協調性』のないことを言うようでは、この職場では失格だ」などと。
    「申し訳ありませんでした。自分の心得違いでした」と詫びを入れるまで許して貰えない。
    詫びを入れたら、もう一度最初から「入会式」のやり直しである。

 

なぜ「入会儀礼」を繰り返すのか

  • だがここでちょっとおかしなことがある。
    前記のような職場習慣を「入会儀礼」だとすると、なぜそれを年がら年中繰り返しているのかということだ。
    入会式なら、その集団に入会した時の一回こっきりで十分なはずだからだ。

  • 因みに皆さんに馴染みのある「通過儀礼」と言えば、先ず筆頭は成人式だろう。
    だがその成人式は当然ながら一生に一回こっきりだ。「成人」という社会集団への「入会儀礼」だって一回だけなのだ。

  • これに対して職場ではどうか。
    前記のような職場習慣を取り混ぜれば、年がら年中何かしらの「入会儀礼」を繰り返していることだろう。
    朝礼に至っては毎日行う訳だ。なぜなのだろうか。

 

「辞令が出たから配属されました」

  • では皆さんは今なぜその職場に居るのか。
    有体に言えば、その職場の一員になったのは会社から配属辞令が出たからだ。入社にしたって、採用試験を受けて入社辞令を交付されたからだ。

  • だからいつまでもその職場の一員であるわけではない。
    上司も同僚も自分自身も定期異動で入れ替わるし、組織改正によって職場ごと解散になる場合だっていつでも有り得る。
  • 規模の小さな会社では会社と職場は同一であるのかもしれない。
    だがその場合は、会社が倒産すれば全員退職して離散を強いられる。

  • つまりみな会社の都合で職場にやってきたのだし、職場自体が会社の都合で作られたものなのだ。
  • 「ムラ社会」の「掟」を守るためでも「同質性」の理念に共鳴したわけでもない。況や「同調圧力」に応じるためでもない。

 

儀礼はなぜ必要か

  • だがそうなると「ムラ社会」としては、ちと困る。
    「会社の都合で職場にやってきただけです」などと言われては、「ムラ社会」の「掟」を守らせることも「同調圧力」を強制することもできない。

  • そこで登場するのが「入会儀礼」である。
    職場の面々に「入会儀礼」を施すことによって、「ムラ社会」の一員になったと認識させるためである。
    「ムラ社会」の一員に対してなら、「ムラ社会」の「掟」を守らせることも「同調圧力」を強制することも可能になるからだ。

  • だがいくら「入会儀礼」を施したからと言っても、現実は変えられない。
    あくまで職場は会社の都合で作られたものであり、職場の面々は会社の都合で配置されているだけなのだ。

  • つまりここでも「ムラ社会」と現実は遊離している訳だ。
    この現実遊離を意識させないために、「入会儀礼」は何度もしつこく繰り返される必要があるのだ。

 

分析対象としての職場習慣

  • 因みに前記で入会儀礼として取り上げた各種の職場習慣に対しては、ここでは別に否定も肯定もしているつもりはない。
    どのような職場習慣を維持するのかは、それぞれの会社や職場の判断だ。
  • だからどんな職場習慣を行うのかは、それぞれの会社や職場にお任せする。ここでは単に分析の対象として取り上げただけのことである。

  • だがここではサラリーマンを念頭にして書いているのだし、ましてや「同調圧力」だのなんだのと書いているところである。
    「こんな職場習慣は嫌だ」と思って抑うつ状態に陥っている「新型うつ」のワカスタン人がいないとは限らない。
  • それに対して「こういうことをやるのも給料に入っているんだよ」とか「わがまま言うな」とか叱責されても、ちと困る。
    何度も書いているように、うつの原因は本人の価値観と周囲との衝突なのであり、どんな価値観を抱くのかは本人の自由だからだ。

  • 従って、分析説明の対象としては書いておかなければならない。それ以外の他意はない。
    否定もしないし推奨もしない。全てそれぞれの会社や職場の自由である。この点誤解の無いよう予めお断りしておく。