「他律性」の排除
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さてこれまで書いてきた「定性基準型」(努力基準)の人生モデルだが、これに異議のある方もいらっしゃることだろう。
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それは特に「他律性」の問題である。
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「物量基準型」モデルにおける「他律性」の問題は既に書いたが、同様の問題が「定性基準型」(努力基準)の人生モデルにも存在する。
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「定性基準型」(努力基準)モデルでは定量的な基準は廃しているため、「努力度」基準も定性的な方向性しか持たない。
そこで自分の「努力度」をどのように評価するのか。
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そこにおける恣意性を排除し自己満足と弁別しようとすると、どうなるのか。他者との比較を基準としなければ評価ができない。
自分の人生なのだから
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だが、自分の人生なのだから、その評価は自分だけですれば十分なのではないのか。
なぜ他人を持ち出すこと、つまり他律性が必要なのだろうか。
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もっと言えば、そもそも努力をするのがいいのか悪いのかだって、個人の価値観次第だ。
努力したい人はすればいいし、しなかったからと言って他人にとやかく言われる筋合いはない。
何しろ自分の人生なのだから。本人が自分の人生の満足しているのかどうか、その主観的な判断だけで十分なのではないのだろうか。
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努力しているのかどうか、そんな自己認識も関係ない。物質的にどんな状況にあろうと関係ない。
こんにち只今の時点で「自分の人生に満足しているか」だけが問題だ。つまり「あるがままの自分」を評価すればよい。
これは「あるがままの自分を受け入れる」ということに繋がるだろう。
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なお、この場合の「満足度」は自己認識の主観的評価になる。
上記の通りこのモデルでは、他人との比較には意味が無い。従って、前記のような統計調査や他アンケートやらに依る他者比較の上での「客観化」などは無用である。
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どのみち「客観化」と言ったところで、他者と比較した上で割り出された評価であるからである。
従ってアンケートなども要らない。ただ心の中で「今、人生に満足しているか」と自分一人で考えればよいのだ。
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これを図示すれば前掲図の通りである。
自己の主観的満足が唯一の評価基準となるのだから、単次元の直線となる。
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問題となるのは「満足度」が大きいのか小さいのか、それだけである
(グラフのx軸は消滅しているので、問題となるのはy軸の値の大小、つまり「満足度」だけである)。
自分の感じている満足度が大きければ、それは自分にとって「よい人生」だというだけのことである。
絶えざる自問自答
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ちなみにこの考えは、単純な刹那主義や享楽主義とは違う。
既述の通り、この考えは
「他者に依存せず、他者に律せられもしないで、如何にして自分の人生を評価するのか」
という疑問を突き詰めるところから、考えだしたものだ。
その結果、こんにち只今の時点で「自分の人生に満足しているか」だけが問題となる。
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ということは、絶えず「今、自分の人生に満足しているか」という自問自答を続けていくことになる。
言い換えれば「たとえ今死んだとしても、自分は悔いはないか」という自問自答だ。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と言う訳だ。
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或る意味で、相当ストイックな態度だと言えよう。こう説明すれば「単純な刹那主義や享楽主義とは違う」と述べた意味がお分かり戴けるだろうか。