最後に台無し?
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さて前記の通り「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」「今、自分の人生に満足しているか」という人生モデルについて述べてみた。
なるほど、これは結構な考えかもしれない。
だが、この考えにはちと問題があるのだ。なぜか。
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人生は長い。「いま、人生に満足しているか」と自問自答したところで、満足度の高い時も低い時もある。
その満足度は時々刻々変動するだろう。
なるほど「今死んでも満足ですか」と問われて、いつでも「はい」と答えられるのなら確かに問題は無いことだろう。
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だが、もしもそうでない場合はどうなるのか。臨終の瞬間に、偶々満足度が下がっていたらどうなるのか。
それは「悔いの残る一生」になるのか。最後の最後でおじゃんになって台無しになるのか。「九仞の功を一簣に虧く」ことになるのか。
「人生グラフ」化
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この問題を考えるためには、時間軸を導入して、モデルを二次元化しなければならない。前掲図の右の通りである。
これは、謂わば「人生グラフ」の一種となる。
この場合の時間軸とは、もちろん人生の始まりから終わりまでの生涯時間のことである。
「満足度」の類型
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満足度が人生を通じてどのように変動するのかは、もちろん人によって違う。千差万別だろう。
だが言ってみれば、人生の終点に向かって尻上がりになるのが一番望ましいことだろう。図示すれば、前掲図の左である。
これは、言うなれば「ハッピーエンド型」だろう。
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だが必ずしもそうなるとは限らない。
「人生は上り坂、下り坂、まさか」の繰り返しである。従ってその結果、寿命を迎える瞬間には甚だ不本意な状況になっている可能性もある。
いや、寿命を迎える瞬間だけではなく、一生の殆どを通じて不本意な生涯を余儀なくされた人もいるかもしれない。
「一瞬の光芒」の有無
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しかしたとえそのような生涯だったとしても、その中に一瞬でも「悔いのない」瞬間があったのなら、どうだろうか。
それは「満足すべき人生」と言えるのではないだろうか。
前掲図右の「一瞬の光芒型」である。この一瞬の思い出を胸に、人生の終わりを迎えることができるのだから。
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人生の意義は、この「一瞬の光芒」の有無にある。おそらくこれがこの人生モデルでの価値観だということになるだろう。