「それじゃメシが食えないよ」
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さてこれまでは「何のために生きているのか」という問題を検討してきた。
そこで人生観にどのような類型があるのか、幾つかモデルを列挙してきた。
もちろん、どの価値観もどの人生モデルも、どれを信じるのかは個人の自由だ。
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だが、ここですぐに出てくるのが「それじゃメシが食えないよ」とか「それはいいけど、どうやってメシを食うの?」という反問である。
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つまり「なんだかんだ言っても、メシが食えなきゃ仕方がないよ」という議論である。
まことに仰る通りなのだが、しかしこの議論の展開には少々注意を要する。なぜか。
「バランスを取ればよい」のか
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人生モデルの選択は、今後の人生をどう生きるのかと言う原則論の問題だ。一方「どうやってメシを食うのか」とは、その人生モデルを具体的にどのように実行するのか、その方法論の問題である。
つまり原則論の方が前提として先に存在する。方法論はその後に存在しているのだ。
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だから、方法論を検討してみた結果が芳しくないからと言って、逆に遡って原則論を変更するわけにはいかない。
そんなことが簡単にできるようなら、そもそもそれは原則論とは言えない。単に、環境次第の便宜論だったということになるだろう。
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だからこれは、「足して二で割って」対立点を中和できるような話でもなければ、「如何にバランスを取るのか」と言うような問題でも無い。
これが他の場合だったら「はい、そうですか。それではメシが食えないのですね」と言って速やかに回れ右が出来る。だが、ここではそうはいかない。なぜか。
「逆戻り」しては「メシが食えない」
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ここでは、ほかならぬ「如何にしてうつから脱け出すのか」を考えているところだ。
自分が内心抱いていた価値観に反する生き方をしていた結果、どうなったのか。皆さんは、とくに体験者の方は、うつという代償を払ってそれを身に染みて体験したところだ。
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だからそうそう簡単に「メシが食えないからこの生き方はやめておこう」などと引き下がる訳にはいかない。
自分の価値観に反した人生を続けようとしたところで、いずれは破綻する。うつが再発して、それこそ元も子もなくなる。
また「すごろく」の繰り返しである。元の木阿弥に戻ったら、本当に「メシを食う」どころではなくなるのだ。
「メシを食う」とはどういうことか
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自分の選んだ生き方を実現するためにはどうしたらよいのか。
その生き方なら、どこまで、どのような生活が可能になるのか。「窮すれば通ず」ではないが、なんとか活路が見出せるものなのか。
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そのためには、少々事前準備が必要だ。そもそも「メシを食う」とはどういうことなのか。現代日本の社会ではそれは何を意味するのか。
先ずこれらの論点整理を予め行ってから、検討しなければならないのだ。