「徹底的自律型」人生観とは
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「雇用市場」の「他律性」は、こんな価値観を取る人にとってはどうなるのか。
つまり「自分の人生は自分のものなのだから、『他律性』には一切左右されず『自律性』を全うしたい。そうでなければ自分の人生を全うしたとは言えない」という価値観である。
これを仮に「徹底的自律型」人生観と呼ぼう。
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となると、どうなるのか。自分で「自律型」人生を決意しても、「雇用市場」で「メシを食おう」とする限り、「他律性」によって左右されてしまう。このジレンマを回避しようとすれば、「雇用市場」で「メシを食え」なくなる。つまりせっかくのその人生を維持できなくなる。
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このジレンマの認識が「それじゃメシが食えないよ」という言葉の第六の意味である。
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もちろんこの価値観を取るのかどうかは、個人の自由である。
この価値観に至った人は、「他律性」に翻弄されてほとほと疲労困憊し幻滅する実体験があったのかもしれない。一方、たとえそのような実体験があっても、達観してこの価値観を取らない人もあり得る。「自分の力でどうにもできないことに悩んでも仕方がない。個人としてはその場その場で最適最善の行動をとるまでのことだ」と。
どちらの判断も自由であるし、どちらにも優劣も上下もない。
「疑似問題」からの脱出
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だが著者に言わせれば、上記のようなジレンマは「疑似問題」である。どういうことか。
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このジレンマに陥るのは「『雇用市場』で『メシを食わ』なければならない」という先入観を前提にしているからである。確かにその先入観を維持したままでは「雇用市場」以外に「メシを食う」場は見つからない。そして「雇用市場」の「他律性」と自己の「徹底的自律型」人生観とのジレンマで悩むことになる。
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だがそのジレンマは幾ら悩んでいても解決しない。堂々巡りの循環論議になるだけだ。
先入観による「他律性」と自分の価値観の「自律性」など、両立するわけがない。それは「疑似問題」なのだ。「悩まなくてもよいことを悩んでいる」のである。
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この循環論議から脱け出す為には、自縄自縛の先入観を捨てなければならない。
「徹底的自律型」人生観を徹底したいから「雇用市場」の「他律性」は排除したい。もしもこう思うのなら、「雇用市場」以外に「メシを食う」場を見出さねばならないのだ。
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即ち、先入観に捉われたまま循環論議に陥るのではなく「その先」を考えねばならないのだ。
「雇用市場」外で「メシを食う」
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では、この循環論議から脱け出す解とは、どのようなものなのだろうか。
「雇用市場」外で「メシを食う」というのなら、「市場化原理」外で価値を創造し、且つその価値を維持しなければならない。どうやったらそのようなことが可能なのだろうか。以降でそれを論じる。