思い当たる言葉は
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「市場化原理」外での価値の創造と維持とはどういうことなのか。ちょっと思いつくままに言葉を並べてみよう。
①ロハス、②スローライフ、③エコロジー、④有機農業、⑤自然農法、⑥フェアトレード、⑦ソーシャルビジネス、⑧社会的企業責任、等々
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何となく思い当たるところはないだろうか。これがどう結び付くのか。以下に考察してみよう。
「フェアトレード」とは
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例えば、この中から⑥「フェアトレード」について考えてみよう。
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ご承知の通り、これは現地の生産者が適正な手取りを得られるような仕組みの取引を目指す考えだ。買い手が「もっとお得な買い物をしたい」と「利益追求原理」に駆られている訳ではない。
もしそうならば、手取りは生産者に渡さずに買い手に回るような仕組みを考えるはずだ。
「自然農法」とは
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また⑤「自然農法」の場合はどうだろうか。
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これは農薬の不使用その他、できるだけ自然状態に近い方法による農業を目指す考えだ(注)。
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ではこの「自然農法」産品の買い手にとって、生産地での自然環境が維持回復されることはどのような意味があるのか。
((注):もっとも「人間が農業を営むこと自体が最大の環境破壊だ」という人もいるかもしれない。たとえ一部とはいえ、人為的に環境を操作していることには変わりはないからだ。だとすると、人類としては農耕開始以前の採集狩猟経済の段階まで後退しなければならなくなる。だがその採集狩猟経済だってどうなのか。新生代第四紀における哺乳類の大量絶滅は、人類の狩猟のせいだという説もあるくらいだ。つまり人類は生存する限り、何らかの環境への影響は廃絶できない。従ってこのような「人類が悪者」説を展開すると、際限がなくなる。「自然農法」の実践者に対して「自然に対する影響を絶無にせよ」と迫ってもそんなことは不可能だ。「自然農法」自体は「できるだけ自然状態に近い」という方向性と程度問題でしか定義できないのだ。よって、ここではこれ以上立ち入らない)
「自然」は売買できない
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ここで注意しなければならないのは、この自然環境は経済学でいえば「外部経済」であることだ。即ち所与の条件として経済活動の前提になっている存在だ。平たく言えば「カネを出して買ってこれるものではない」ということである。
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となると自然農法によって生産地の自然環境が回復改善されたとしても、どうなるのか。
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「おかげさまでこれだけ自然が蘇りました」と自然を「良くなった」部分だけ切り売りして、買い手にキャッシュバックする。こんなことができるわけない。
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自然環境自体は売買の対象にならないからだ。となると「自然農法」産品の買い手は、これまた「利益追求原理」を動機としている訳ではない。
「商品化原理」の方が「お買い得」
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更に言えば「フェアトレード」にしろ「自然農法」にしろ、その問題点は産出量とその品質が不安定であることだ。もちろんここでいう品質とは、色や外見、形や大きさの揃い方、味とか仕上がりとかを含めた、広い意味である。
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特に農産物の場合に言えることだろうが、ある年は大変な当たり年で、美味くて大きな産品が山ほど手に入る。しかし別な年は天候のせいか出来が悪く、手に入る産品はあまり味も良くなくて、しかも小さくて少ない。
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「商品化原理」によって流通している産品の方がよほど「お買い得」である。いつでもどこでも、支払う値段に応じた品質の産品が、欲しい量だけ手に入る。
割高でも「価値」がある
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それに比べたら、はっきり言って「フェアトレード」や「自然農法」の場合は割高になる。
だが「フェアトレード」や「自然農法」の買い手は、それでもカネを払う。「フェアトレード」や「自然農法」の目的は「お買い得」な買い物をするためではないからだ。
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また、商品を比較する対象を広げるために「フェアトレード」や「自然農法」の産品に注目した訳でもない。況や「同じ代金の産品ならA国の生産者を支援するよりもB国の方が『お得』だ」などと比較選考している訳でもない。
目的は「利益追求原理」でも「商品化原理」でもない
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これらの買い手側には、最初に「現地の生産者が適正な手取りを得られるようにしたい」とか「できるだけ自然環境に影響の少ない農業を普及させたい」とかの目的があるわけだ。その目的に適う産品に対して代価としてカネを払う。
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確かに貨幣を媒介にして購入しているのだから、形態としては商品取引には違いない。
だからと言って「市場化原理」に則っている訳ではない。既に述べたように、目的は「利益追求原理」でも「商品化原理」でもないからだ。
「市場化原理」外での「価値」とその対価
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従って「市場化原理」外の部分に価値を認め、それに対してカネを払っていることになる。つまりは「市場化原理」外においても価値は創造されているということだ。
そしてその価値を認める買い手が居る限り、その価値は維持される。つまり売買とその価格が維持されるのだ。
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従って、労働の売買にしても同じことが言えるだろう。この場合、労働の対価として収入を得る交換の場という意味だ。従って被雇用者としての労働形態だけではなく、独立自営も含む訳だが。
この労働の対価として収入を得る交換の場には、「市場化原理」に支配された「雇用市場」以外にも交換の場があり得るのだ。
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もし「市場化原理」外の価値を自ら創造するか、或いはその担い手となればどうなるのか。
その労働に対して「買い手」がつく。既に見たようにこの「買い手」は「市場化原理」で行動しているのではない。
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従ってこの「買い手」に対して価値を提供したとしても、「市場化原理」の「他律性」によって左右されることは免れる。そしてその「価値」に対する「買い手」が居る限り、代価として収入を得られる。つまり「メシが食える」ことになるのだ。
例示の目的
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なおご承知のこととは思うが、以下念の為お断りしておく。
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ここで述べている内容は、「フェアトレード」や「自然農法」など上記①~⑧で挙げた各分野に携わっている、実在の関係者の皆さんとは関係ない。
現実の関係者の皆さんが、どのようにこれらの分野に携わっていらっしゃるのか。どのような価値観と動機から、これらの分野に携わることを選択なさったのか。もちろん、ここではそんなことを述べているわけではない。
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また、このような分野で生計が必ず成り立つと保証している訳でもないし、実例として挙げている訳でもないし、況や推奨している訳でもない。どのような生計手段を選択するのかは本人の価値判断次第だし、その選択は個人の自由である。
ここではどんな生計手段の取捨選択も、否定もしない代わりに推奨もするつもりもない。ご自分の人生なのだから、その生計手段はご自分で取捨選択して戴きたい。
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ここでは、前述のような「疑似問題」の先を考える目的で、「市場化原理」外での価値の例として挙げたまでのことである。
従って、上記①~⑧のような各分野は、あくまでこのような意味での例示と受け取っていただきたい。また著者個人としては、上記のような分野のいずれも主張するものでも推奨するものでもない代わり、否定もしていない立場である。以上念の為お断りしておく。
企業が参入した場合
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ただしここで問題がある。前に述べた①~⑥の各分野に、もし企業が参入したらどうなるのか。現に⑦ソーシャルビジネスとか⑧社会的企業責任という言葉が有るのだ。
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例えば⑧社会的企業責任という名目の下に、①~⑥の各分野に企業が参入する場合があり得る。この場合は必ずしも各々の分野の事業単体で利益を出さなくてもよい。だが企業全体としては、ブランドイメージの維持改善とか長期的な企業イメージ戦略などが目的となっていることだろう。つまり結局は「利益追求原理」が動機である。
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また⑦ソーシャルビジネスと言われるように、明確に企業化を目指す場合もある。この場合は事業単体で利益を出さなければならない。黒字から経費と税金を差し引いた残りを出資者に利益分配するためだ。即ちこの場合も「利益追求原理」が動機である。
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こう書いたからと言って、別段⑦ソーシャルビジネスとか⑧社会的企業責任に乗り出す企業を「偽善だ」とか「動機が不純だからけしからん」などと批判したりしている訳では毛頭ない。
企業が「利益追求原理」に従って行動するのは当然のことなのだ。これは事実の問題であって、それ以上でもそれ以下でもない。これは前に資本主義社会について書いたことと同じなので、これ以上は再説しない。
「他律性」の再来
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この「市場化原理外」での価値を扱う分野は、前に述べた①~⑥の各分野以外にもあり得ることだろう。
だがそれらには、企業が参入できないような特段の障壁は無い。だから企業の参入は阻止できない。
だが動機が何であれ、企業の資金力と組織力を以って参入されたらどうなるのか。
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動機はともあれ、やっている内容は全く同じである。いやむしろ企業が手掛けた方が、規模や水準は大きくなる可能性がある。
これではとても太刀打ちは出来ないことだろう。では個人はどうしたらよいのか。
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もちろんこの分野に参入した企業に就職するという方法もある。より大規模でより高水準な仕事ができる可能性があるからだ。これについては後程再説する。
だがそうやって企業に就職したらどうなるのか。また「雇用市場」に逆戻りである。これでは「雇用市場」の「他律性」から免れない。それでは、ここでの答えにはならないのだ。
「共存」は可能か
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それではどうしたらよいのか。
折角「市場化原理外」にも価値が創造可能であることが分かったところなのだ。企業の参入は阻止できないとしても、それと併存若しくは共存して、自分の創造した「市場化原理外」の価値を維持する方法はあるのか。
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その方法はある。ただし、そのためには一つの条件があるのだ。
それは「好きなことだけやる」ということだ。それはどういうことなのか、以下に述べよう。