「好きなこと」の見つけ方
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それでは「好きなことだけやる」とはどういうことか。
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それは「ガーデニングが好きだから農業を始める」するとか「釣りが趣味だから漁師になる」というような、単純に短絡的なことではない。色々な視点から自己内省した結果として、残ってくる選択肢である。
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では、いったいどうやって「好きなこと」を見つけるのか。その方法は幾つかある。
「習慣」から見つける
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誰にでも、好きな分野と言うものは有る。いつのことからなのか、誰に言われなくてもずっと興味が続いていることだ。
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例えば、会社帰りに本屋に立ち寄っても、自然と足が向く方向があることだろう。その方向の書棚に並んでいる本の分野だ。
或いはご自宅にいつの間にか増えていく本や雑誌の分野でもいい。読み物ではなくても、道具や家財などでもいい。
或いは、何かしらほぼ毎日続けている習慣でもいい。
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それらのモノや生活習慣が、図らずも「好きなこと」の一端を示しているのだ。
「創り出すモノ」から見つける
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「紙と鉛筆」だけを手段として無形物を生み出す仕事。ホワイトカラーと言われる業種は殆どがこれだろう。
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しかしそれでは満足できない場合はどうか。
何か手仕事で「実体物」を生み出す仕事に惹かれることだろう。「手触りを大切にしたい」とか「ものづくりの感覚を忘れたくない」とか言う場合だ。
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もちろんその反対に、「紙と鉛筆」の仕事に惹かれる場合もあり得る。文字その他の記号を操作して情報を創造するような仕事だ。
道具は「紙と鉛筆」だけだから、自分一人で創造可能だ。しかもその内容は無限大のイマジネーションを生みうる。
創造の結果は、情報の送り手から受け取り手の脳内に伝わる。脳内に現れるから、そのインパクトは無限大なのだ。こんな場合だってあり得ることだろう。
「職能」から見つける
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先に見たように「人の笑顔を見る」のは、そうそう嫌いな人はいないことだろう。自分のしたことによって他人が笑顔を浮かべる。それを見るのは、誰でも気分のいいものなのではないだろうか。
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ただ、その「笑顔」にも色々ある。
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その笑顔が、「なるほど、おかげ様でよく分かりました」という知的理解を表す破顔一笑ならば、どうか。
そのような笑顔を見るのが好きな人は「説明する」とか「伝える」という仕事が好きなことになる。相手が自分より下の世代や若輩者である場合は、それは「教える」という仕事になるのかもしれない。
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またその笑顔が「おかげ様で気が楽になりました。先の見通しがついて、目の前が明るくなったような気がします」という安心の笑顔ならば、どうか。その笑顔が好きな人は「相談にのる」という仕事が好きなのかもしれない。
「適性」から見つける
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適性とはどういうことか。
「これは、やっていても疲れない」「これなら無理しないで続けられそうだ」と思えることだ。趣味なら当然のことかもしれないが、仕事だってそうだ。収入の代償として手がけることであっても、適性が自覚できる仕事とそう思えない仕事があることだろう。
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もちろん「楽しくて仕方がない」とか「熱中できる」という場合なら、適性には問題ないことだろう。
だが「疲れない」とか「無理がない」という場合も「適性」としてあてはまるのだ。これは「ない」という否定形で自覚するから、一見消極的な理由に思えるかもしれない。だがそれが実は重要なのだ。
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自分が精力とスタミナに溢れているときは、何も問題は無い。多少無茶なことがあっても押し切れる。
だがそうでない場合はどうなるのか。「どんな場合でも息切れせずに続けていられる」ということの方が、重要になるのだ。
「第三者の視点」から見つける
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実はこれらの「好きなこと」は、案外自分では自覚していない場合があるかもしれない。
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サラリーマンは、会社から命じられたことをやるのが仕事だ。「好きなこと」も何もない。だからサラリーマンの日常では、自分が仕事として取り組む場合に「何が好きか」などと自問する機会はほとんどないのに違いない。
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となると他人の視点から見つかる場合もあるかもしれない。
例えば皆さんは、こんなご体験は無いだろうか。
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「おまえは、いつもそういうことをしているな」とか「いつの間にか、必ずそっちの方向性で取り組んでいるな」などと、呆れ半分と感心半分の表情で言われた体験だ。
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つまり、自分ではそれほど意識していなかったが、他人から面と向かって言われてみると「なるほど確かにそうかもしれないな」と気づかされた、という体験である。
そこで他人から言われたことが、今まで自分の無意識下にあった「好きなこと」を言い当てているのかもしれないのだ。
「好きなこと」で「メシを食う」ために
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さてこのように様々な「見つけ方」を試した結果、最後まで残った選択肢が自分の「好きなこと」である。
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では、このようにして自分の「好きなこと」が見つかったとしよう。
だがそれだけでは「メシは食えない」のだ。なぜか。
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その「好きなこと」は、自分だけが実行可能とは限らない。他の個人だってできることだろうし、企業や組織が参入してくる場合もあり得る。何の参入障壁も阻止要因もないからだ。前述の通りだ。
もう一つの「前提条件」とは
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だとするとどうなるのか。
特に企業と競争を強いられることになった場合は深刻だ。個人は、企業の資金力と組織力には敵わない。企業に参入された場合、同じことをやっている個人はまともな競争相手になるどころか、一瞬のうちに一掃されてしまうことだろう。
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では「好きなこと」を選んだ個人が、生き残る途はあるのか。たとえ企業と競争になっても、併呑も一掃もされることなく共存併存することは可能なのか。
実はその為には、更にもう一つの「前提条件」が必要なのだ。その条件とか何か。次項で述べよう。