いろいろある「メシの食い方」
そもそも「メシを食う」とはどういうことなのか。
そんな疑問に突き当たっても、そんなに慌てることは無い。何しろ人類はその誕生の最初から「メシを食ってきた」のだし、現代でも場所によっては様々な「メシの食い方」があるはずだ。
ちょっと思い出しながら、先ずはそれらを並べてみよう。
因みに、もし相当程度の資産を所有していれば、そのアガリで生活できる。だがそのような人は、そもそも生活の心配がない訳だ。
だからここでの問題、つまり「どうやってメシを食うのか」という問題の対象にはならない。よってここでの検討の対象から除外する。
「メシが食える」条件もさまざま
なお、これは経済学的若しくは歴史学的に厳密な意味で列挙している訳ではない。あくまでも論点整理の為のおおまかな例示だと受け取って戴きたい。ただ、(ア)から(オ)までの順に従って、社会的な交換の規模が次第に大きくなっているということは言えるかもしれないが。
いずれにしろ、学問的に正確な用語や概念を求める方は、各々の分野の専門書をご参照戴きたい。
また以降の記述は、実際にこのような生活が可能であると保証するものでもないし、実例として述べている訳でもないし、況や推奨するものでもない。
著者自身は、実体験としてはサラリーマンとしての生活経験しかないのだし、記述の目的自体、あくまで論点整理の為の思考実験として考えた内容を述べているだけである。この点誤解の無いよう予めお断りしておく。
あくまで思考実験の結果としてのみ、お読み戴きたい。それ以外での読み方は絶対になさらないようにお願いする。
以下、順を追って(ア)から(カ)までを簡単に補足する。
(ア) 自給自足経済(個人)
読んでの通り、これは完全に自給自足で生活する方法である。謂わば現代版ロビンソン・クルーソーである。これが上手くいけば、自分と社会の価値観がどうであれ「メシが食える」ことになる。
だが現代の日本に「誰でも」「いつでも」「好きなように使って良い土地」つまり「無主地」が残っているとは思えない。だからこの方法の実現には、相当の好条件の累積を要する。ざっと考えれば下記の通りだ。
自給自足の実現に必要な条件
① 先ず、田畑や山林付きの一軒家を無償で貸してくれる奇特な人を見つけなければならない。「今は誰も使っていないので、このままでは家も山林も田畑も荒れてしまう。番人代わりに住み込んでください。今或る物は好きに使って結構ですから。お代は要りません。タダで結構です」という人だ。
② もちろんその一軒家には、納屋の中に鋤鍬鋸鉈斧などの金属器や農機具などが残っているし、種籾や種芋や野菜の種もある。塩や味噌醤油の備蓄も残っている。おまけに家主さんがニワトリを何羽か持ってきてくれた。母屋には井戸もあって水も賄える。こんな条件が必要だ。
③ 皆さんは、つい最近までサラリーマンをしていたのだから、食器や衣服などの最小限の生活道具はお持ちのはずである。まあ背広とネクタイは要らなくなるだろうけど。それらの手持ちの生活用品を担ぎ込んで、いざ自給生活の開始である。
④ 大豆の栽培と放し飼いの鶏で蛋白源を補給する。カロリー源は、穀作農耕か芋農耕で自給する。野菜類についてはもちろんのことだ。照明用を含めた燃料は、裏山から薪か粗朶を切り出すか刈ってくる訳だ。もし菜種が上手く栽培できて搾油もできれば、灯りも点せる。行燈か提灯だけど。
⑤ そうなると自給生活を始める側にも条件が必要になる。農耕技術や裁縫の技術、味噌醤油を自作するための発酵技術、そしてDIYよりはもうちょっと広範囲で、木工や土工の技術もマスターしていなければならないのだ。
⑥ 因みに「個人」とは書いたが、その中には家族も含む。もちろん、一緒にこんな自給生活することに同意して貰えれば、の話だが。
⑦ これらの条件が満たされれば、めでたく自給生活が可能になる。住まいは無償で確保したし、食料は自作だ。衣服は、持ち込んだ品物を大事に繕いながら着倒せばよい。これなら電気代も水道代も要らないし、衣食住も賄える。
⑧ こうすれば、耕作が順調で且つ自分たちが健康で居られる限り、自給生活が営める。自分と社会の価値観がどうであれ「メシが食える」訳だ。
⑨ ただし、この生活ではパソコンもスマホも使えない。手元に現金がないのだから、料金が支払えない。そもそも電気だって使っていないのだ。そういう物欲が未だ残っている人はこの自給自足生活はできない。
この「個人の物欲と生活手段の関連」については、後程再説する。
(イ) 自給自足経済(集団)
上記(ア)の発展形がこれである。同じような境遇の近隣複数世帯で協同するわけだ。
そうなると、屋根の葺き替えや畦道や用水路の修繕など、個人では手に余る作業も可能になる。もちろんこれは輪番制でお互い助け合う訳だ。
この相互扶助の共同作業に応じるという条件に従う限り、これまた自分と社会の価値観がどうであれ「メシが食える」ことになる。
(ウ) 交換経済
自給生活が軌道に乗って、生産物に余剰が残るようになったら、この生活である。
交換先はお隣さんでもいいし、近場に市(いち)が立つのならそこでもいい。
ただし、何しろ物々交換だから、欲しいものがいつでも手に入る訳でもない。
また、交換する品物と量目はその都度一回ごとに相対(あいたい)で決めなければならない。
現代生活との連想
① 現代生活で言えば、ネットオークションを連想する方もいらっしゃるかもしれない。
だがこの段階では未だパソコンもスマホも使えないのだから、当然インターネットも使えない。
手元に現金が無いのだから宅配便の料金も支払えない。従って、こちらの品物の発送もできないのだから、出品も不可能だ。
物々交換がネットオークションと似ているのは、相対取引という一点だけだ。
② 或いはガレージセールかフリマなどをイメージなさる方もいらっしゃるかもしれない。
だがこの物々交換の段階では、現金では決済しないのだ。出すのも受け取るのも、お互いあくまで現物だけだ。
おまけに交換は、お互い持ち寄るその場その時だけになる。
物々交換がガレージセールやフリマと似ているのは、手持ちの物品を取引するという点だけだ。
③ 従って、現代生活の中でこの物々交換段階と最も近いものを強いて言えば、不用品交換市みたいなものになるのかもしれない。
この点については後程再説する。
(エ) 貨幣経済
この段階に至って、我々におなじみの経済形態が出てくる。手元の余剰生産物を現金と交換できる段階だ。
これなら欲しいものがなくても、取敢えず現金に換えておけばよい。
おなじみの経済形態であるから、ここでは特にこれ以上の説明を加えない。
(オ) 資本主義経済
現代日本社会の経済がこれである。貨幣経済の段階は既に到達している。
既述の通り、もしも相当程度の土地や建物や株券か預金などを所有していれば、そのアガリで生活できる。
だがそうでなければ、働かなくてはいけない。頼りになるのは自分の腕一本、身一つだけである。
働く対価として受け取るのは、何しろ貨幣経済到達後の段階なので、現金つまり賃金である。
だから自分を雇ってくれるところを見つけるか、或いは自分が手掛けている仕事に注文が入らなければ、現金が入手できない。
現金が入手できなければ、生活できない。世の中のあらゆる財物に値段がついているからだ。
つまり現金と引き換えでなければ売って貰えない。現金が入手できなければ、何も手に入らないということだ。まさしく「メシが食えない」状態である。
つまり資本主義経済下で「メシを食う」ためには、自分を雇ってくれるところか、或いは自分の手掛けている仕事に対して注文をくれる相手を見つけなければならない。
(カ) サラリーマン
これは前記(オ)の一部の話になる。従って(オ)と(カ)を結ぶ矢印は、破線で描いている。
前記(オ)の中で、雇用主が企業であり、仕事の内容としてオフィスでの業務に従事するのが所謂サラリーマンである。
従ってオフィスワーカーとしての企業からの雇用契約を失えば、サラリーマンとしての生計手段は消滅する。