7)「カネが無くてはメシは食えない」のか

カネをかけずに

  • 因みにここで、前述の「最小限度」を実質的に更に小さくする方法がある。ちょっと寄り道して補足しておこう。
  • 人生は時間によって様々に変化する。個々のライフステージによってライフスタイルが変わる。それによって家財や所有物品の一部が「未だ使えるが、自分にとっては不要品になる」ことがある。そのまま捨てればゴミだ。
    だが「中古品で構わない。使えればよい」という人にとっては価値がある。即ち未だ効用が残っている。
    これを身近なグループ内で物々交換するのだ。中古品を相互に融通して使い回すわけだ。
  • 上図では必要な現金収入の額はr3である。これを上記のような方法によってr3´(ダッシュ)まで減らすことができれば、必要な労働時間はh3からh3´(ダッシュ)まで減らすことができる。

集団での「お互い様」

  • これは言ってみれば、不定形の集団的連携による一種の共同購入及び共同利用だ。
    もし仮に全ての購入品を全員が輪番に使い回せば、謂わば均等出資で共同購入をしたことになる。
    持ち回り利用によって、一人あたりの実質的な負担額を減らしているわけだ。
  • 言い換えれば、これは物品の共同利用によって購入費用あたりの実質的効用を最大化しているということになる。
    購入できる物品の量が一人あたりで増えた訳でないので、実質所得の増加とまでは言えないだろう。
    だが少なくとも、入手できる効用は増加している。
  • これは購入品ばかりではなく、到来物を相互にお裾分けしあう場合もあることだろう。
    それは何も家財などに限らない。誰かのところに届いた地方名産とか農産物とか食材とかでもよい。
    これも「自分にとっては不要品だが、他人にとっては価値がある」物品の相互融通だ。平たく言えば「助け合い」だ。身も蓋もないことを言えば「カネがないからモノを大切にする」ということに外ならないが。

 


物々交換経済か

  • 因みにこれは、家財や所有物品の単なる切り売りではないから、タケノコ生活というわけではない。一方では、物々交換に一見似ている。ただしここで交換するのは中古品か到来物だ。余剰生産物ではない。
  • 物々交換経済で対象となる余剰生産物なら、自分で作ったものだし従って新品だ。だからこれは物々交換経済ではない。
    似ているのは現金を介さないという点だけだ。まあ貨幣経済から物々交換経済に後退したとまでは言えないだろうが、疑似的に外見は共通だとは言えるかもしれない。

 

カネが無いなら

  • ここで念の為にお断りしておくと、前記は「働く時間は減らすべきだ」とか「出来るだけ働かない人生の方が望ましい」とか「他人からの貰い物に依存して寄食生活を目指せ」などと言っているわけではない。では、なぜこんなことを書いたのか。
  • 人生では、時によって現金収入を得るための労働時間を割きたくても割けない場合があり得る。それは創作活動とか在野の研究活動などかもしれないし、それ以外にも色々やむを得ない事情はあり得る。もちろん、その場合の理由と事情は人それぞれだ。
  • だがその場合でも、直ちに「メシが食えない」と絶望するのは早計ではないか。カネがないなら無いなりに、どうするのかを柔軟に考えなければならない。「カネが無いからメシが食えない」と絶望しているよりは、「カネが無くてもなんとかなる」と考えていた方が柔軟だし、それによって現実的な対応が可能になるのではないのか。
  • もちろん前記のような方法は、助け合う仲間が身近に居るとした上での話だ。だが、たとえばそれによって生計の抗堪性が一定程度確保できるのではないか。このような仮説を述べたまでのことである。それ以外の他意はない。もちろん仮説だから何の保証もお約束もできない。この点もあわせて、念の為お断りしておく。