「個人の自由は社会を破綻させる」のか
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だが、 ここまでお読みになって、こう仰る方もいることだろう。
「各自が好き勝手な人生観を選択するようになったら、社会が破綻するのではないか」
と。
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つまり「人生モデルと生計手段の選択を個人の自由に任せたら、経済活動が停滞し社会が衰退するのではないのか」という懸念だ。
「多様性」への収斂
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だがこれは無用の懸念だ。個人の選択の自由と社会の維持発展は両立する。なぜか。
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なるほど確かにこれまで述べた内容に従えば、こうだ。
確かに一部には「市場化原理」万能の社会論理に異議を感じ、働く目的を必要最小限の収入確保に限定する人が出てくる。
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だが社会全員がそのような選択をすることは有りえない。それとは異なる選択をする人も当然いるし、中には逆に「市場化原理」万能の「物量基準型」価値観に邁進する人だって当然いることだろう。
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「人は十人十色」なのだから、全員が同一の価値観になることは有りえないのだ。また同様に、全員が同一の職業観や生計手段を選択することもあり得ない。
従って社会全体としてみれば、人生モデルも生計手段も必ず多様化し発散する。つまりは「多様性」に向かって「収斂」する。
無理は続かない
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そもそも、前記の懸念だって、よくよく考えてみたら実はおかしいのだ。その懸念を裏返して言えば「経済活動の維持と社会の発展の為に、個人はその選択の自由を我慢すべきである」ということになる。
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だが個人を犠牲にしながら経済的に繁栄している社会なんて、そんな社会が長続きするのだろうか。そんな社会が破綻する危険性の方が、余程高いのではないのだろうか。
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結局無理は続かない。長期的に見れば、個人の選択の自由と社会の維持発展は両立する。
と言うよりも、両立する均衡点に向かってどのみち収斂せざるを得ないのだ。
だから前記の懸念は、そもそもあり得ない事態を自作して杞憂に陥っているだけということになる。つまりこれまた「疑似問題」である。
望ましい社会とは
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よしんば仮に、経済成長率が多少とも現状より低下したとしよう。そしてその因果関係が証明されたとしよう。人生モデルと生計手段の選択が全面的な個人の自由に任された結果なのだと。
だからと言って、それがどうだというのだろうか。
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経済成長率が多少低いけれど、人生モデルと生計手段の選択が個人の自由に全面的に任されている社会。経済成長率は高いけど、個人が犠牲になっている社会。
どちらが幸福な社会と言えるのだろうか。どちらが望ましい社会像なのだろうか。
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結局前記の懸念は「経済と社会の為に、個人は犠牲になるべきである」という価値観の、無意識の告白にほかならないのだ。
従って前記の懸念をお感じになる方は、ご自身が無意識的にせよどのような価値観を信じているのか、そしてどのような社会像が望ましいと考えているのか、是非自覚的にご認識戴きたいと思う。
「貴方も一緒に犠牲になりなさい」
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もちろん、どのような価値観を信じるのかは、個人の自由だ。そして自分の信じる価値観を実行するのも各自の自由だ。
だがそれを他人に強制するのはおかしい。
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従って「経済と社会の為に、個人は犠牲になるべきである」という価値観を信じるのも、それを実行するのも個人の自由だ。
だがそれを他人に強制するのはおかしい。
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もちろん、ここで「私は犠牲になるのはいやだから、社会の為に貴方が犠牲になりなさい」というのは論外だろう。
だが「私は社会の為に犠牲になっている。だから貴方も一緒に犠牲になりなさい」というのも、同じくおかしいのだ。
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「経済と社会の為に、個人は犠牲になるべきである」という価値観を信じる方は、ご自身でそれを実行なされば良い。それ以上でもそれ以下でもない。
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だが、そこで「私はこんなに犠牲になっているのに、同じように犠牲になろうとしない他人がいる。これはまったく、けしからん」などと憤慨するのも、これまたおかしいのだ。
それでは、自分の価値観を実行しているのではないことになる。「いやいや我慢している」だけである。
それでは純粋な自己犠牲とは言えない。
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ここでご自身の「我慢」の根拠を「社会の為には、自分を我慢させるのが人間の美徳なのだ」などと言っても同じことだ。
では、なぜ自己犠牲が美徳なのか。その根拠としては「自分はこの価値観を信じている。だからこう思っているのだ」という同語反復的な図式しかない。
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だが他人は他人で別な価値観を信じていることだろう。
所詮それは無数に存在している個人の価値観の一つに過ぎない。自分の価値観を他人に強制するのはおかしいのだ。
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なるほど、確かに他の場合には「美徳」は広義の「公徳心」に含まれるのかもしれない。
だが、この場合は意味が違う。「公徳心」とは社会生活での共通ルールを相互遵守することである。
だがこの場合の「美徳」とは、個人の価値観や人生観の自由を制限しようという話なのだ。全然意味が違う。なぜか。
「己に従って矩を踰えず」
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「公徳心」と個人の価値観の自由は両立するからだ。謂うなれば「己に従って矩を踰えず」だ。お互い他人に対しては公共の場では迷惑をかけない。本来の「公徳心」とはこういう意味なのではないのか。
社会生活の共通ルールを遵守しているのなら、内面でどんな価値観を信じていようと個人の自由だろう。社会全員の価値観を統一したり制限したりしなければ実現不可能なことではない。つまり「公徳心」と個人の価値観の自由は両立するのだ。
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だから、ここでたとえ「美徳」を「公徳心」などと言い替えても、おかしなことであるのには変わりはない。
問題は、こうだ。それほどまでしても、なにゆえに個人の価値観を制限したいのか、なぜ特定の価値観を強制したいのか、ということなのだ。
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「個人の放埓や放恣を制約し、社会を一つの方向に向けた方が、社会全体の生産性が上がる」からか。
それに対しては即座に「『好きこそものの上手なれ』なのではないのか」という反論が可能だ。いや、そもそも「生産性」などと言い出した時点で、「経済と社会の為に、個人は犠牲になるべきである」という価値観の議論に結局逆戻りである。同じことなのだ。
不自由な方が嬉しい人たち
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「他人が自分と同じように犠牲になろうとしない」という義憤を感じる方、「我慢」は「美徳」や「公徳心」だと仰る方。
そういう方は、上記のような疑問に対してちょっと自問自答をお願いしたいと思う。